最近、本を真剣に読まないなぁ。
読んでることは、読んでるけど真剣に読み解いてない。
かといって、くだけた本も完遂してない。
どういうことなんだろ。
5月は、まったく本を読まなかったに等しい。
自分の人生で有り得ないような気がする。
忙しかったのはある。
5月は、結構いろいろあった。
身体の状態を維持するのが、一般人と少し違うので疲れると回復するのに時間がかかる。
『疑わしきは被告人の利益に』の執筆が大きいかな。
ほとんど、時間がある時は執筆に費やしていた。
これは、本当に不思議な作品。
まるで、自分が書いた気がしない。
誰かが書かせたって感じ。
ともかく、そんなこんなで5月は本を読んでいない。
6月に入っても、『宇宙戦艦チンエン』を書いているので読書の時間が取れない。
そのくせ、奥さんと会うと古本屋まわりをするので本が溜まってきてしまう。
このまま、本を読まなくなるのかなぁ
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2012年6月17日日曜日
2012年4月17日火曜日
ここまでわかった!恐竜の真実 ヒサクニヒコ
この本は、油断ならない。
恐竜の研究で現在の恐竜認識を書いた本をさんざん読んだけど、それらの本と少し視点が違うんだよね。
ここでも、眼から鱗が落ちるところがある。
恐竜化石の発掘競争の話。
マーシュとコープがアメリカ西部で激しく発掘競争していたはなしは有名だけど、それが、西部劇もどきの状態だったってこと。
場所がモンタナやダコタで年代が1870年代だったら、インディアン戦争の真っ最中だよね。
カスター将軍が、スーとシャイアンの連合軍に全滅させられた場所のすぐ近くで発掘が行なわれていた。
場所と年代で想像出来たはずなのだが、西部劇さながら展開がされていたのだ。
発掘隊は、6連発リボルバー拳銃を腰にさし、ウィンチェスターライフルで武装して作業を行なっていた。治安が悪い西部でのことだ。
西部劇のドラマがビジュアルで浮かぶ。
また、1922年にモンゴルに送られた化石発掘調査団のはなし。
この時代背景は、共産党と国民党が争い軍閥が辺境を闊歩する時代である。
発掘隊は、機関銃やカービン銃で武装して、山賊が襲ってきたときはためらわず武器を使った。
まるで、冒険小説だ。
発想がひとつふたつ浮かんでくる。
時代と場所を考えると、当然なのだけど、恐竜から離れているから発想できなかったのである。
恐竜は、ジュラ紀、白亜紀に生きて生活していた。
当然、のろまでは生き残れない。化石を残したくらいだから、生活圏を持っていたはずである。
化石から想像できることに限界があるが、生物としての恐竜を生態系で捉えないと全体を把握できないということだ。
この作者は、この本の構成をよく練っている。
単なる、ネタ本やノウハウ本にしていない。
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2012年4月15日日曜日
ゴー宣 暫 小林よしのり
まだ、途中までしか読んでないけど、
この人相変わらずだな。
「ゴーマニズム宣言」以降、ずっとこの路線を守っている。
強引なところもあるし、納得できるところもある。
主張はそれぞれだ。
しかし、題材が危険すぎる。それを強引に進んでいくって感じだな。
しかし、世の中、決着出来ないことが一杯あるんだな。
この本を読むと、そのことは納得できるよ。
人には、それぞれ主張があり、譲れない線を持っている。
どこまで許容するか? かな、
いや、違うな。すれ違っているボタンを相手に気付かせることが出来るか? かな。
どうも、表現が難しい。
ただ、小林よしのりは孤高に立ち向かっているような気がする。
これは、あくまでも印象だけど、
もう少し、妥協的なところもあっていいんじゃないかと……
もう、この人は「東大一直線」のノリには戻ってこないんだろうな……
そこが、非常に残念。
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タイムマシンがみるみるわかる本
小説の調べ物をするために、様々な本を読む。
今回は、タイムスリップをネタにしようと思い、買った本だ。
どうも、専門書は手に余る。このくらいがちょうど良い。
この手の本で、困るのは情報の信憑性だ。
中身が正しいかの検証に、こちらが素人だけに本当に困る。
ネット情報で検証してみるが、そちらも正しいかどうか……
この本は、時間というものをじっくりと解説してくれる。
結果的にタイムマシンを作ることができるかというところに集約してくるのだけれども。
時間というものは、非常に面白い性質を持っている。
空間や重力や光の速度により、性質を変えてくる。
この本は、そのあたりを図入りでわかりやすく説明してくれる。
入門書としては、うってつけなのである。
SFのネタとしては、非常に好奇心をそそられるものである。
ひとつ勉強したのは、ホーキングが主張していることが具体的にわかったこと。
あの車椅子の物理学者は、よく見るけど、何を発見したかとか主張しているかってニュースだけじゃわからんもんな。
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劇画 皇国の守護者 佐藤大輔 + 伊藤悠
原作は佐藤大輔。
作画が伊藤悠。
最近はご無沙汰になったけど佐藤大輔氏の仮想戦記物をよく読んでいた。
「レッドサン・ブラッククロス」だったかな、日本とドイツが戦うやつ。
設定が緻密で、実際に戦う末端の兵士たちの描写が秀逸だった。
設定は、ボードゲームの原作で培われたものらしいが、シミュレーションが緻密でよく調べられていると感じた。
戦争ゲームの是非はともかく、人間は戦争が好きらしい。
この原作はぜひとも読まねば、と感じた。
でも、これの設定って面白い。
まず、地球によく似た歴史を持つ惑星。
剣牙虎がまだ生きていて、それを飼いならして武器としている。
大陸の東側に日本列島の構成に似た皇国。
大陸には、ロシアとドイツを足したような帝国。
時代設定は、地球の1870年代くらい。
銃は、単発で先込め銃。ライフル銃身が普及しかかっている。
少し、銃の発達が実史より遅いようだ。
導術というレーダーに似た能力を持つ人間が、斥候兵として各部隊にいる。
龍が住んでおり、人間と共生しているが、双方は互いに干渉しないが互助すべしという「大協約」を結んでいる。
そこに、帝国が北から攻め寄せてくる。
という発端部分がこの巻だ。面白くなりそう。
でも、やっぱり小説版を手に入れよう。
最近、なんだか佐藤大輔を敬遠していたからな。
原因はあれ……
信長新記の続きを書いてくれないからだ。私が知らないだけなのかな。
この本が、2005年初版だから、原作本はもっと前に出ているはず。
ブックオフを探せば100円であるだろう。
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2012年4月13日金曜日
テレビ放送事故&ハプニング
別にどうって事はない、軽い本なんだけど。
でも、結構こういうのって買っちゃうんだよね。
著者は「マイケル宮内」。
サイトを出していたら、アクセス数が増大して、タレこみ件数が増えプロのライターになったそうだ。
へぇ~、こういう経緯もあるんだ。
でっ、もうお腹いっぱい。
でも、この本は蔵書にはならないな。
もう、いいや。読み捨てる。
こんな話題は、ネットでも拾えるし……
既に、ブックオフ行きのかごに入ってる。
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2012年4月6日金曜日
人類以前人類以後 豊田有恒
前に読んだ豊田有恒先生の「甦る古代史」の姉妹編っていうかこちらの方が正式版。
「甦る古代史」は、先生があまり真面目に取り組んでいらっしゃらないような執筆だった。
「甦る古代史」と重なるようなテーマがたくさんあるが、こちらの方はキチンとまとめている。
編集者の違いなのかもしれない。
「人類以前人類以後」って題名は、当時話題になっていた「アフターマン」のもじりだと思われる。
人類以後のことは、最終章にほんのちょっとしか出ていない。読書時間としては15分程度で読み取れるものだ。
興味深いのは、地球の進化史に関するもの。
原始生命は今から30億年前に、細胞核がない単細胞生物として生まれた。
しかしそれから12億年の間、まったく進化がなかったのだ。
親から子へ遺伝子をコピーする状態が12億年も続いたのだ。
そして、突然真核細胞を持つ生物が生まれてきた。
この引き金を引いたのは何か。
豊田先生はここにSF的な発想を持ち出す。
露天しているウラン鉱石が臨界を超えて自然に核分裂を始め天然の原子炉となって、単細胞生物に突然変異を促して多細胞生物が生まれてきたと言うのだ。
うなづけるかどうかは別として、発想としては面白い。
次の発想。
これは、豊田先生の独自路線だが、二畳紀にはテラプシダ(哺乳類型爬虫類)の天下だった。
これは、胎生で恒温動物、体毛が生えている。哺乳類化の一歩手前の状態だった。
次の地質区分、三畳紀、ジュラ紀は哺乳類の時代になるはずだった。
しかし、意に反して恐竜類の時代になってしまった。
これも、大いなる謎である。
次の発想。
人類の話である。
ホモ・サピエンスは、猩猩(しょうじょう)いわゆる尾のない猿類から分派した。
猩猩は雑食性であるが基本的には果実食などの草食である。
木から降りた猿オーストラロピテクスは、サバンナに取り残され、肉食にならざるを得なかった。
つまり本来の食性から外れた、異端の霊長類である。
本来は、地上の覇者になれるわけはなかったのである。
エピソードとして出てくるのが、パラントロプス・ロプトウスという木から降りたがまだサバンナに適応していない、同種に近い霊長類を捕食していたということ。
獲物が取れずに、飢えていたときのみの行動らしいが、同種を捕食するという行動は異色らしい。
捕食動物の同種は、相手を捕食することはない。
ライオンは弱ったライオンを襲わない。
人類は、自然の摂理に逆らった動物なのだ。
クラークのSFではないが、人類は不完全なのだ。
この覇権が絶頂に達した時、人類は滅亡する運命にあると、警告して終わっている。
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2012年3月31日土曜日
騎馬民族の源流 豊田有恒
豊田有恒氏の古代研究?と言って良いだろうか。
ともかく、氏の騎馬民族への憧憬を綴った本です。
氏は、邪馬台国成立に関する小説を発表しています。
「倭王の末裔」「倭の女王・卑弥呼」「親魏倭王・卑弥呼」など。
氏の仮説は以下のようです。
『2世紀から3世紀にかけての朝鮮半島には、扶余族系の騎馬民族が闊歩していた。
それらは、土呉れ(定住する農耕民族)を略奪し、海を越えて北九州にも拠点を構える。
やがて、扶余族はスーパーステート『漢』の国の政策に追われて、朝鮮半島を放棄し北九州の拠点を拡大して、邪馬台国を討ち立て卑弥呼を女王と定めた。』
とまあ、概略このような構想のもとで小説を構築していったのです。
日本の古代は、まだまるでわかっていない状況です。
邪馬台国のことにしても、魏志倭人伝に頼らないと文献として残っていません。
その魏志倭人伝にしても、伝え書きなのです。
このような状況のもとでも、SF小説家の豊田有恒としては、日本の国としての成立を小説として描きたかったのです。
そこで、氏は半島の事情を理解するためにも韓国語が必要だと考え、それを習得しました。
そして、綿密な取材を重ね、上記を『フィクション』として上程したのです。
氏は、続く邪馬台国論争の中で、ここがそうだという比定地を避けています。
小説の中では、必要上このあたりというわかるような書き方をしていますが、自身ではどこどことは答えていません。
邪馬台国論争の無意味さを問うています。
邪馬台国が、どこにあろうが構わず、国際関係(当時の)上での倭の国の位置づけが問題だと静かに言っているように思います。
当時の邪馬台国論者の中で、韓国語が出来る人がいたでしょうか。半島まで取材にいった人がいたでしょうか。
ちなみに氏は、角川の野性号という企画で、当時の船を再現して、半島南端から対馬、壱岐を通り北九州に到ることができることも実地で証明しています。
氏は『邪馬台国ゴロ』のブローカーにしつこく絡まれて、閉口したと言っています。邪馬台国の比定は町おこしの材料として金になるらしいです。
しかし、だからと言って事実を曲げて良いわけがない。
氏はむなしい論争から引いたところに身を置いたようです。
氏のもう一つの興味は蝦夷(えみし)です。
東北地方は桓武天皇の治世まで(平安京遷都)、別の国でした。
それは、蝦夷が支配する国だったのです。
蝦夷とは、成り立ちははっきりしませんが、明らかに狩猟民族としての特徴を備えていました。
これを題材として、
「荒野のフロンティア」「雪原のフロンティア」などを書かれています。
これらは、東北が日本におけるフロンティア(辺境)だったとして西部劇仕立ての活劇となっています。
そして、蝦夷の大酋長「アテルイ」や征夷大将軍「坂上田村麻呂」などを登場させています。
アテルイのことは、歴史史料をあたってもほとんどわかっていません。
アテルイは陸奥の英雄でした。にも関わらず、この郷土の英雄が悪路王と名付けられて山賊のかしらくらいの扱いを受けていることに氏はひどく憤慨しています。
それは、蝦夷の民族文化が和人系日本人によって抹殺されてしまったからであると氏は語ります。
豊田有恒氏は、本当に硬派の作家だと思います。
必要だと思うことは努力を重ねる。そこで生まれてくる作品が光っています。
1994年1月 初版
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2012年3月28日水曜日
奇妙な論理Ⅰ マーチン・ガードナー
トンデモ本の元ネタになるのかな。
トンデモ本から推薦されていたので読んでみた。
解説は、と学会会長の山本弘が書いている。
1989年、刊行となっているけどアメリカではもっと前に刊行されていたのだろう。
ネタ元が古い。
でも、翻訳がいただけない。もう少し意訳出来なかったのかしら。
いや、翻訳ではなくて原書がこうなのかも……
この本は疑似科学について述べたものである。
・地球空洞説
・アインシュタイン相対性理論批判
・進化論批判
・科学的人種差別
・カルト教
・自然医療崇拝
・ESP
などなど
もう、お腹一杯。
昔から、論理破綻している人々はいたんだ。
不思議なことは、それらを取り上げるマスコミが存在したこと。
だから、現在でも脈々と受け継がれていく。
そして誰もいなくなった アガサ・クリスティ
ポワロもミス・マープルも登場しない。
10人の脛に傷を持つ人々が、ある島に集められる。
そして、次々に殺されていく。
不思議なことに、最後に残った1人も死んでしまう。(一応自殺なのだが……)
真相は、犯人によって流されたビンの中の手紙により明らかになる。
よく練られたストーリーだ。
ミステリーを書いてみればわかるが、10人の人間をそれぞれ別の方法で殺害するという構築をするだけでも結構骨が折れる。
それらを有機的に連動させて、1本のストーリーに納めるのは大変な作業であり、大変な労力なのだ。
はっきり言って、クリスティの作品に文学的価値はまったくない。
殺人や、探偵など非日常の世界だからだ。だから、クリスティも日常生活の描写に平気で手を抜く。
そんなことはどうでも良いのだ。読者は、探偵趣味を望んでいるのだから。
この作品は、クリスティの中でも評価が高い。推理ドラマとしてのクォリティは非常に高い。
2012年3月27日火曜日
カンガルー作戦 豊田有恒
豊田有恒氏の時間SFだ。
今回の仕掛けは、有袋類。
地質学の専門家、秋野は、オーストラリア北部でボーキサイト鉱脈の調査をしていた。
そこで、異類のUFOに襲われる。間一髪のところで、タイムパトロールのヴィンス・エヴェレットに救われる。
異類たちの興味は有袋類にあった。
有袋類をめぐり、異類の軍隊とエヴェレットの航時軍が時間をさかのぼりながら対立する。
実は、異類は有袋類から進化したもので、独自の歴史を持っていた。
別の時間流をもっていたのである。
壮大な話になっている。
これこそが、SFのダイナミズム。
豊田有恒氏の真骨頂。この分野を切り開いてきた、豊田氏ならではのストーリーとなっている。
星を継ぐもの J・P・ホーガン
月で人類と見られる化石が発見される。
50000年前の化石であった。そんな古代に人類は宇宙に進出していたのか。
主人公は、イギリスの科学者(名前忘れた)。
彼は結局、NASAをはじめとするさまざまな機関や人材を配してまとめ上げるマネージメント能力を発揮する。
結局、発見された化石は外宇宙からやってきた異星人に関連があることがわかり、その異星人の宇宙船がある木星の衛星ガニメデに向かう。
出版は1968年らしい。ちょうど、小松左京先生と同期くらいになる。
このころ、海外SFって読まなかったんだよね。
なんか、あの翻訳口調のような感じが好きじゃなかったんだよね。それで和製SFしか読まなかったんだ。
惜しいことをしたね。こんなに面白いんじゃ読めば良かった。
この、続きで『ガニメデの優しい巨人』というのがあるんだけど、どこにも見つからないんだよね。
大きな本屋には行ってないけど、ブックオフや、普通の本屋には無かった。
やっぱ、SFは売れない分野なのかな。
国家の品格 藤原正彦
ひところ話題になった、『国家の品格』である。
藤原氏は、本の中で日本および日本人の美学について論じる。
藤原氏は、論理の応酬だけで物事が決まっていくアメリカ社会に爽快感を感じていたそうである。
しかし、日本に帰国して、アメリカ流が通用しない日本社会を痛感したようです。
そして、情緒とか「形」とかの意味を考えるようになったそうです。
論理だけでは最終的に破たんになる。
論理だけでは説明しきれないものがある。
「ならぬものはならぬのです」と会津藩の什の掟を賛美する。
日本人の自然に対する感受性。情緒への賛美。
それぞれに、賛成できるところではあるのであるが
しかし……
これは、形を変えた国粋主義ではないのか?
どうしても、そのように思ってしまうところもある。
もちろん、プロパガンダのような書き方はしていないし、口当たりも反発を招かないような工夫がしてある。でも……
疑い深い私は、やっぱり疑ってしまう。
著者は、作家である新田次郎氏の長男で理学部教授。
ただし、私も、日本人はもっと自信を持って良いと思う。
様々な文化遺産に囲まれたこの国がこのまま埋もれてしまって良いわけがない。
井沢元彦氏の著書と比較しながら読むと面白い1冊かもしれない。
空想科学裁判2 円道祥之
空想防衛読本に続く円道祥之氏の空想科学裁判の第2弾。
黄金怪獣ゴルドンの死体から金(ゴルドンはどういう食性か、金を食べる)を取り出して、被害にあった街に寄付してしまった。
さてこの行為は、違法か? という問題に法律的にスポットを当てる。
もしかすると科学特捜隊はネコババになるかもしれない。
問題は、この金の所有者は誰かということだ。
サリーちゃんが家を建てると?
日本には、所有者のない土地など一坪もない。しかし1960年までは、土地の不法占拠が実質的に可能だった。
などなど
空想世界のできごとを現実の法律で検証するとどうなるかということを主旨にセンスオブワンダーで持論を展開していく。
このシリーズは結構楽しい。
ぜひとも、一度読んで欲しい。
2012年3月23日金曜日
空想防衛読本 円道翔之
防衛とついているが、防衛問題の本ではない。
地球や日本に攻めて寄せてくる怪獣や宇宙人などの攻めてくる理由。
それを守るための防衛組織の構造や目的などを興味深く分析する。
著者は、円道翔之氏。『空想歴史読本』などの著者だ。
偉いなと思うのは柳田理科雄氏に比べると、題材として取り上げている作品のすべてに目を通していることだ。(当たり前だけど)
柳田氏は、作品の一部分しか見てない。従って抽出する例があさはかになり、とんでもない結論に達してしまう。
その点、円道氏は、責任持って作品を取り上げているようで、突っ込みも的を得ている。
確かに、空想世界に登場する、防衛組織はなんだか変。その何が変かということを的確に述べる。
ヒーローに関する、話題が少なかったのは、ちょっと残念。
また、攻めてくる宇宙人の目的を考察すると確かに目的が希薄であったり、作戦が中途半端であったり、ご都合主義だったりする。
それでも、著者は空想作品が好きだと推察する。
それは、私も同じだからである。
2012年3月19日月曜日
トンデモ本?違う、SFだ!
山本弘氏は、本当にSFが好きである。好きで好きで愛してやまないようだ。
だからSF作家になっている。
山本氏は説く。
SFは壮大なうそ話だと。その通りだと思う。
そのうそをいかにうそと思わせないに苦心するかというのがSFの真骨頂である。
私も、SFが好きだ。たくさんSFは読んだ。少し山本氏とは系統が違うような気がしているが……
今は、SFは売れない時代らしい。確かに大上段に構えたハードSFは売れないのだろう。
しかし、いろいろな分野で要素としてのSFが活躍しているという。
SFに明確な定義はない、と説く。
『センス・オブ・ワンダー』があれば、SFだ、。ワンダーとは面白いデタラメだ。
山本氏は、SFをこの本の中で時代を追って、紹介してくれる。
ジューヌ・ベルヌの『月世界旅行』。懐かしいですね。ジューヌ・ベルヌとHG・ウェルズはSFの黎明期に活躍した作家たちです。まだ、19世紀後半1800年代にこんなもんを書いていたんですよ。
私が、小学校高学年だったころ、学校図書館で借りて、夢中になって読んでいたもんです。
どんな話かって? 大砲の会社の幹部たちが南北戦争で要らなくなった大砲を何とかしようと会議をして、超巨大な大砲と砲弾をつくり、それを月に向かって打ち上げようとする話です。
ロケットが、砲弾に変わっただけで、現代のアポロ計画とあまり変わらない発想を持っていたようですね。19世紀における大ボラ吹き。
SFの基本は大真面目な大うそです。それを実感させる。面白い。
『フェッセンデンの宇宙』。エドモント・ハミルトン。
科学者が実験室で創造した宇宙を興味本位で殺伐を繰り返す。
昭和10年代のスペースオペラの時代。
『火星ノンストップ』。ジャック・ウィリアムソン
異星人が攻めて来て火星をテラフォーミングしようとし、地球の空気を奪おうとしている。
そのため、地球と火星は、空気の層(トンネル)で結ばれていた。
そこを、冒険家のヒコーキ野郎がプロペラ機で火星を目指すという話。
あ~、大ボラ。
2012年3月18日日曜日
井沢元彦の世界宗教講座
逆説の日本史シリーズの井沢元彦氏の本である。
井沢氏は持論として、日本人は無宗教を標榜しているが本当はその大多数が日本教という宗教の信者である。と主張する。
最初にこの説を聞いたとき、目から鱗が落ちたような気がした。なるほどと思われることが多々あったのだ。
その、井沢氏が、日本の宗教観と世界に点在する宗教観を比較しているのがこの本である。
比較宗教論とでもいおうか。
この本自体は、名古屋の朝日カルチャーセンターで行なった『新宗教学入門』という講座の焼き直しで1993年に刊行されている。
のちに出てくる井沢氏独特の言霊や歴史観などに関してはその鋭さがまだ無いが、十分読者を納得させることができるだけの説得性を持っている。
まず、日本教の本質をつく。
『和』である。『大和』という言葉は『大きな和』ということではないのか。日本人は『和』を重んじる。
『和』とは、話し合いのことである。ものごとを決めるときに話し合いをすることは当然良いことのように感じるが、逆にいえば『話し合い至上主義』なのだと説く。
その根拠として、聖徳太子の『十七条の憲法』を引き合いに出す。
その第一条は『和を以って貴しとなす』である。これを最初にもってくる。二条は仏教を敬え、三条は天皇を敬えと続くが、第一条に『和』を持ってきている。
確かに話し合いは良いことだ。しかし、聖徳太子は、というよりも日本の支配階級は『和』を導入することにより治世しようとしているのではないか? という疑問を投げかける。
つまり、話し合いをしなくて決めたものには価値がないという話し合い至上主義である。
井沢氏の主張の根本としてのもう一つの柱は『怨念』である。
多数決や独断で決めたものは、反対意見の者にこの『怨念』が残る。それを薄めるのが話し合いに参加する『和』なのだ。
日本人の原理の根本がここにある。
これに対して。世界はどうだといい、キリスト教、仏教、イスラム教と比較していく。
・キリスト教
キリスト教は、神と信者の契約である。それが基本。
旧約聖書と新約聖書に書かれていることを正確に守ることが信者の務めである。
しかし、聖書に書かれていないことがある。その解釈権を巡ってカトリックとプロテシタントに分派
プロテシタントの考え方から、近代合理主義が興る。
ここでまた眼から鱗なのだが……
基本的人権のことである。
人間は、能力の高い者も低い者もいるが、神の前に置いてはたいした差ではない。
なんせ神は全知全能なのであるから。だからこそ神の前では等しく平等であり、神の前で一人一人の人としての基本的人権が付与される。
神と契約関係にない日本人にはこの発想は出てこない。なるほどと思う。
・仏教
仏教の目的は『悟り』と『入滅』である。
つまり、人間としての苦しさからどのように逃れ、人間を超えた存在になるか。
というようなことになろうか。哲学的な発想である。
そのために、修行をする。その修行の形態で大乗仏教と上座部(小乗)仏教に分派する。
上座部(小乗)は、『悟り』を得るために修行して仏陀になることを目的とする。
対して、大乗仏教は、それでは一人しか救えない。みんなを救う手立てを考えることができないか、と考える。そのみんなを救う手立てというところで更に分派していく。
尻つぼみになってしまっているが、井沢氏はこのようにしてこの本の中で世界の宗教を比較していく。
そして最後に、また日本に戻ってきて、これらの考え方が入ってきた以降の日本においてこれらの生き方の原理を日本人がどう咀嚼していったかを説くのである。
説明が長くなってしまったが、ともかく一度読んでみる価値のある一冊である。
2012年3月17日土曜日
ゴルゴ13 No172
ゴルゴ13はいつもブックオフに行くときに買ってくる。
105円。読み捨ててる感じだ。さいとう先生ごめんなさい。
いつも困るのは、これって読んだかな。読んでないかな? という疑問。
話数が多すぎて、記憶の彼方にあるのだ。
だから、凄いと思う。さいとう・たかお先生はこれを毎週描いているのだ。
裏の世界のスナイパーの話だけど、国際政治の裏側での話題の拾い方。
また、その解釈の仕方。これを毎週こなすのは、ホント大変だと思うよ。
ゴルゴ13って、私が学生時代からあったのでかれこれ40年以上だと思うけど描き続けるって難しいだろうな。
時々間違っていて、突っ込みも入れたりするけど、ちゃんと資料もあたってるみたいだし。
頭が、下がります。
2012年3月16日金曜日
3001年終局への旅 アーサー・C・クラーク
ハードカバー版です |
本作は、『2001年宇宙の旅』、『2010年宇宙の旅』、『2061年宇宙の旅』に続くシリーズの続編であり、最終編でもある。
この本は、ブックオフで105円で手に入れた。ハードカバーでこの金額だ。
この巨匠の作品が、この値段で手に入る。1997年7月31日の初版だった。SFがいかに人気が無いかわかろうと言うもんだ。
他にも有名処のSFは置いていない。『ガニメデの優しい巨人』が読みたかったのだが、何件探しても見つからなかった。SF自体が無いのだ。
小松左京先生の作品もない。まったく、寂しいかぎりである。
SFは、その荒唐無稽さが良いのだが、アーサー・C・クラークに関してはその科学的正確さが良い。
知ってましたか。通信衛星の発案者はクラークなんですよ。
でも、まぁ今回の舞台が1000年後の30世紀なので、科学公証は難しいですね。
だから、機械がどのくらい発達しているかはともかくとして、生物学的には1000年経っても変わらないだろうから、
21世紀の人間と話が出来るくらい科学が発達している社会という舞台設定にしている。
私は、『2001年宇宙の旅』、『2010年宇宙の旅』は実は読んでいない。2本とも映画で観た。
『2001年宇宙の旅』はいわずと知れたスタンリー・キューブリックの名作。
見てない人の為に解説すると、
400万年前、アフリカの猿の群れの前に『モノリス』が現れる。『モノリス』は黒い不思議な板で1匹の猿がそれに触れると武器を作って狩を飛躍的に向上させ、
競争者も蹴落とす。『モノリス』には、進化を促進する力があるようだ。
そして21世紀。2001年に月で第2の『モノリス』が発見される。その『モノリス』は木星に向けて何かを発信していた。
それを探査するため、アメリカがディスカバリー号を木星に向かわせる。
船長にデイブ・ボーマン、副長にフランク・プール。そして船内制御コンピュータ『ハル』。
木星軌道に入る前に『ハル」の制御がきかなくなり、人口冬眠していた科学者たちの生命維持装置を切って死なせてしまう。さらにボーマンとプールの殺害も謀ろうとする。
それに気付いたボーマンたちは、何とか『ハル』を出し抜いて機能を止めようとする。
『ハル』は、船外活動艇に乗ろうとするプールを宇宙空間に放り出す。
何とか、『ハル』の活動を止めたボーマンは『モノリス』の影響を受けて人間ではない存在になる。
ここまでが2001年。これが公開されたのが1966年ごろだったから、結構凄いでしょ。でも現実には2001年にはまだ月に基地は出来てないし
『ハル』のようなコンピュータも出来てないけど、当時の想像力から2001年を見通す力は凄いと思うよ。
次に2010年。
アメリカとソ連が冷戦状態から一即触発の状態に陥っている世界。(ソ連がこの頃まであると思っていたんだね)
木星軌道付近を漂っているディスカバリー号が木星に引き寄せられていることが判明する。
ディスカバリーを木星に送ったフロイド博士は、ソ連のレオーノス号に便乗して木星に向かう。ディスカバリー号とランデブーしてディスカバリー号の機能回復を
図ろうとする。そこにいたるまでのスペクタクルが、木星の大気をクッションに使って軌道を修正するフライバイだ。レオーノフ号が火の玉になって飛行する。
そんなこんながあって、ディスカバリーの機能を回復したが、地球ではアメリカとソ連がついに衝突する。それは宇宙空間でも適用されレオーノフのソ連クルーと
冷戦状態になる。
そんな時、ボーマンの亡霊が現れ、木星宙域から脱出するように忠告する。
『モノリス』により、木星が爆発し、第2の太陽『ルシファー』が誕生する。ボーマンの忠告によりディスカバリー号とレオーノフ号は爆発の衝撃波から逃れる。
『ルシファー』は、地球に恵みをもたらして、米ソは和解し平和が訪れる。(はっきり言って、『ルシファー』の誕生と地球の平和との関係は私にもわからない)
『モノリス』は人類に告げる。『ルシファー』は自由に使って良い。ただし、衛星エウロパには近づくな。
2061年はまだ、未読です。映画もないと思う。どこかの図書館にあったと思うが・・・・・・
ハレー彗星に進化の鍵を解く物質があってそれを探査するためにハレー彗星に着陸する話だったような気がする。
そして、3001年終局への旅。これが完結編である。
さて、ストーリーだが今回の主人公はディスカバリー号の副長だったフランク・プールが3001年に海王星軌道付近を漂っているところをコメットハンター
の船に助けられるところから始まる。
プールはは30世紀の医学により蘇生する。30世紀の様子を丹念に描いていくが、先ほど書いたように21世紀人のプールに合わせるように31世紀人がしてくれる
ので、違和感が無いようになっている。うまい構成だ。
興味を引いたのが、超高層ビルの屋上で庭師をしているベロキラプトルだ。この無害な恐竜の使い方が面白い。
たぶん作者は『ジュラシックパーク』を観ている。
後半は、プールがエウロパに着陸し、『モノリス』の目的を探ろうとする。
その結果、人類は未完成だと判断した『モノリス』の持ち主によって刈り取られようとしていることが判明する。
人類は中途半端だ。一貫した思考力を発揮することが出来ない。と『モノリス』は21世紀に500光年彼方の指令所に発信した。
その返信が500年かかって太陽系の『モノリス』に届けられると人類の刈り取り作業が始まってしまう。
プールは、ボーマンの亡霊の力を借りて、『モノリス』にコンピュータウイルスを仕掛けることに成功する。
エピローグにこうある。
宇宙はまだ若く、その神はまだ幼い。判定を下すにはまだ早すぎる。
アクロイド殺害事件 アガサ・クリスティ
初めて読んだのは、高校生の時かな。
犯人は最初からわかっていた。
読書は筋を読むだけではないということを
つくづく感じさせる推理小説である。
いろいろと張り巡らされた筋立て、容疑者
達の心理状態まで見極めるエルキュール・ポワロ
の灰色の脳細胞。
ところで犯人は、この物語を記述した医者である。
書いた本人が犯人なのだから、これはトリックとして
成立しない。
という批判があちこちで起こった。
今に至るまでも、推理小説の正当なのかという議論が起こる。
しかし、クリスティ女史はいたるところで読者に示唆を与えて
いる。
推理小説に詳しい人は、この医者が怪しいと考えるだろう。
それでも、記述者が犯人であろうはずがない。
という固定観念を破れないのだ。
果てしなき流れの果てに 小松左京
先日逝った小松左京先生の作品である。
高校生の時
初めて読んだがそれから毎年1回は必ず読んでしまう。
ブックオフが出来てからは、小松左京先生の作品を探すのだがあまり見つからない。
特にこの作品は、めったにお目にかかれない。
この作品は昭和40年に書かれている。西暦でいうと1965年だ。
そんな時代に、こんな壮大な物語があったとは本当に驚異的である。
これは云わば、宇宙史である。小説という体裁を借りているが、壮大な哲学的なものを感じる。
一応ストーリーは、大阪の南部で山の中腹に設けられた奇妙な古墳の発見からはじまる。
その中から発見された砂時計は、永遠に砂が落ち続ける不思議なものだった。
理論物理学者、野々村はその古墳を調査しどこにもつながっていない羨道を発見する。
その夜、大阪の街で恋人の佐世子と落ち合った後、野々村は行方を絶つ。
奇妙な砂時計は未来の宗教「拝時教」の道具だった。それは時を越えて通信を行なうことが出来るものだった。
宇宙は(それが生まれる前から)秩序を保つものとそれを破壊するものとで争われていた。
それは、時空を越えまた次元を越えて展開された。
それは管理するものと、反抗するものとで争われた。
舞台は、近未来、突然の太陽黒点の異常で太陽が膨脹し地球が滅亡する時代であったり、中生代白亜紀であったり、見知らぬ
星の上であったり、日本の古墳時代であったり、1965年であったりする。
野々村は秩序を破壊するNとなり、野々村の子孫で太陽膨脹から退避したマツウラはより階梯の高いアイと意識合同して
エヌを追う。
ストーリーはこの両者の追跡劇を軸として展開する。
階梯とは知性レベルのヒエラルキーとして描かれる。
進化する目的。知性とは、意識とは……。それらを考えさせる為のエピソードが続く。
終盤、追い詰められたNはすべてを超越した意識を得て、宇宙のまたこの世界のすべてを見る。
時間の流れのすべてを、宇宙のすべての場所を、進化の過程のすべてを、枝分かれした多次元のすべてをNは知る。
そして、知りすぎた罰として、地上に落とされ、野々村を待ち続けて年老いた佐世子と暮らし、彼女を見送って後自分も
息絶える。
ストーリーはともかく、壮大な話である。
ところどころに、練り不足の箇所は見られるがこの壮大な話と取りまとめる技量はさすが、小松先生だ。
少なくとも、私にはその能力は得られそうにない。
さて、これは「日本沈没」よりも前に執筆された小説である。
「日本沈没」のようにポピュラーではないし、小松先生のファンでも知らない人が多いようである。
しかし、私個人としてはこの「果てしなき流れの果てに」が小松先生の代表作だと思っている。
日本沈没第2部(上下) 小松左京+谷甲州
いわずと知れた、「日本沈没」の続編。
小松左京先生としては、まず発想として日本民族の世界彷徨の発想が先にあり
その前提として、日本が国土を失ってしまう「日本沈没」があったらしいので
あるが……
小松先生も歳を召されたと思う。チーム仕事としてプロジェクトを立ち上げて
自分では書かず、執筆は谷甲州が行っている。
だが……
これは、谷甲州の作品だと思うよ。
少なくとも、小松先生の作品じゃない。
世界中を放浪して歩き、海外青年協力隊でネパールに赴任、国際協力事業団プロジェクト調整員としてフィリピンへ行っていたりする。
そういった、経歴から今回の執筆がぴったりではあるのだが、ぴったり過ぎて谷甲州そのものの作品になってしまっている。
小松左京先生独特のダイナミズムがない。
ストーリーは大きく3つの部分に分かれている。
日本が国土をなくした大厄災からおよそ30年。
世界中に散らばる日本人たちは、オーストラリア北部にある亡命政府を中心にして、持ち前の勤勉性を発揮しその地域の発展に寄与しようとしていた。
だが、日本人の集団としての閉鎖性などその地域との軋轢も様々にあった。
また、内部的にも1世と2世の世代間解離もある。
1つのパーツはその中のニューギニアに植民したグループの話で治安の悪さや民族性の違いの中で苦労して農業を発展させていく植民基地のエピソード。
もうひとつのパーツは中田首相(彼は第一部にも登場してたよね。D計画の責任者として)がかつて日本があった位置に巨大な浮島を作って領土を回復(メガロフロート計画)しようとする話。
ただ、これは中国や周辺諸国の同意を得られず日本はアメリカに助けを求めてしまい、国際関係上、アメリカの罠にかかってしまう。
最後のパーツは、武装ゲリラと化してしまったカザフスタンの日本人植民の話。
ここのリーダーはなんとあの小野寺(1部に主役級で登場)、記憶を無くしていた。
また、国連難民高等弁務官として玲子が登場し最後には小野寺と再会する。
と、いうようなドラマがだらだらと続いていくのであるが……
何というかな、小松作品につきもののスペクタクルがないのである。
カザフスタンで異常気象により信じられない量の雪を短時間で降らしそれを、なんとか避けるというような筋立てはあるのだが、小粒すぎる。
話の取りまとめとして亡命政府は、「地球シミュレータ」という精密なコンピュータシミュレータを持っており、それによれば日本沈没時の火山灰が成層圏に大量に堆積して地球全体の太陽光線を減少させ地球が冷えていくことがシミュレートされていた。
アメリカは国家エゴとして、「地球シミュレータ」を独占しようとする。
まあ、様々な具がスープの中で煮立った状態だが、味のしまりが悪い感じである。
いろいろと緻密な調査はされているようである。
しかし、うまく調理仕切れなかった感が強い。
こんな話を考えてみた。
----------------------------------------------------------------
様々な兆候があり、緻密な調査の結果日本列島は約10年後に日本海溝に引きずりこまれてしまうことが判明した。
時の首相は、海外に点在していた日本資産を最初は目立たぬように最後は露骨に引き上げた。
産業界は一丸となり、宇宙産業に投資した。
日本は独自に宇宙ステーションを打ち上げる。その規模は前代未聞の一万人級をモニュメントとして打ち上げるというのである。
----------------------------------------------------------------
それは成功し、宇宙ステーション「日本」は、1万人の日本人を乗せて衛星軌道に乗る。
日本の国土への厄災は起こり、日本人たちは秩序を保ち、整然と非難する。
世界中に点在して暮すようになった日本人たち。
衛星軌道のぎりぎりのところを周回する人工衛星「日本」は世界中に散らばっていった日本人たちの本当の意味で「希望の星」だった。
----------------------------------------------------------------
太陽系外から巨大彗星が地球との衝突軌道をとっていることが判明する。
様々な、対策が採られるが次々に失敗。
ギリギリのところで人工衛星「日本」が彗星の前に立ちふさがり衝突して
その軌道を変える。
----------------------------------------------------------------
地球人はかつて地球という惑星に「日本」という国家があったことを
感謝するのであった。
----------------------------------------------------------------
劇画『三国志』 やまさき拓味
最近たくさんの三国志ものが出ている。書籍や映画やゲームなどだ。
映画『レッドクリフ』の影響か。しかし、その前から日本では流行のようだ。
やまさき拓味氏の三国志もそんな中の1つである。
他の三国志ものとあまり変わらない。劉備を極端に平和主義者とし、いくさでも人を殺さないと設定したことと、
主従関係を若干変えた(黄忠は呉軍の将軍だったはず)などの味付けはあるが、迫力ある劇画調の絵以外は他と同じ様に
一瞬ののど越しを残して、野に埋もれてしまうもののようである。
その証拠に、3巻めまでで打ち切られている。しかも非常にきりが悪い終わりかただ。董卓を長安まで追って討伐するところで終わっている。
読者がついて来なかったのであろう。
私も、たぶん2度と読み返すことはないだろう。読み終えたら即、ブックオフ行きのかごへ放り込んだ。
しかし……
思想性やテーマを考えたとき、三国志をどう料理すれば良いのだ。作者が苦心惨憺する様子が手に取るようにわかる。
たぶん、これは流行にのった編集者側からの依頼だったと思われる。それをアレンジするときの苦心がわかる気がする。
作中でも、鳥を使う姉妹や、人を襲う野猿の群れなど作者オリジナルのストーリーが展開するが、三国志という既に出来上がっているものを追わないわけにはいかないのだ。
この作品は、作者としても失敗作だと思っているだろうが、何とかする手立てはあったのだろうか?
ドラマトゥルギーを考える時、枷を嵌められた状態でなおかつオリジナリティを要求された場合どう料理すれば良いのだ。
読者はサイダーの一瞬の清涼感を求めているのだから、これで仕方なかったのだろうか?
考えさせられる、1冊である。
映画『レッドクリフ』の影響か。しかし、その前から日本では流行のようだ。
やまさき拓味氏の三国志もそんな中の1つである。
他の三国志ものとあまり変わらない。劉備を極端に平和主義者とし、いくさでも人を殺さないと設定したことと、
主従関係を若干変えた(黄忠は呉軍の将軍だったはず)などの味付けはあるが、迫力ある劇画調の絵以外は他と同じ様に
一瞬ののど越しを残して、野に埋もれてしまうもののようである。
その証拠に、3巻めまでで打ち切られている。しかも非常にきりが悪い終わりかただ。董卓を長安まで追って討伐するところで終わっている。
読者がついて来なかったのであろう。
私も、たぶん2度と読み返すことはないだろう。読み終えたら即、ブックオフ行きのかごへ放り込んだ。
しかし……
思想性やテーマを考えたとき、三国志をどう料理すれば良いのだ。作者が苦心惨憺する様子が手に取るようにわかる。
たぶん、これは流行にのった編集者側からの依頼だったと思われる。それをアレンジするときの苦心がわかる気がする。
作中でも、鳥を使う姉妹や、人を襲う野猿の群れなど作者オリジナルのストーリーが展開するが、三国志という既に出来上がっているものを追わないわけにはいかないのだ。
この作品は、作者としても失敗作だと思っているだろうが、何とかする手立てはあったのだろうか?
ドラマトゥルギーを考える時、枷を嵌められた状態でなおかつオリジナリティを要求された場合どう料理すれば良いのだ。
読者はサイダーの一瞬の清涼感を求めているのだから、これで仕方なかったのだろうか?
考えさせられる、1冊である。
龍臥亭事件 島田荘司
上下巻1000ページに及ぶ大書です。
え~とっ。
この話整理しないとよく理解できないぞ!。
完全なネタ晴らしになってしまうけど、これがわかっていても十分楽しめると思われるので整理させてください。
ネタ晴らしが嫌な方はここから先はオミットで……
前半はバンバン人が死んでいくもんな。
まず、3系統の殺人計画が底流にあった訳だ。
すべて昭和13年の「津山30人殺し」の犯人、「都井睦雄」の因縁によって引き起こされている。
①犬坊菊子による加納通子 ユキ親子の殺害計画。
②「都井睦雄」に恨みを抱く犬坊由利子の子孫、二宮佳世による加納通子 ユキ親子への殺害計画。
ちなみに加納親子は「都井睦雄」の血を引いている。そして犬坊菊子、犬坊由利子ともに「都井睦雄」の血を絶やすことを願っており犬坊由利子は子々孫々までそれを宿願として伝えている。
③龍臥亭の調理人「藤原」による犬坊一男への殺人計画。
藤原の目的は犬坊育子を自分のものとするためその夫である犬坊一男を殺害するという目的がある。
ここで藤原は「都井睦雄」が生前書いていた猟奇殺人計画書「昭和7年の天誅」を手に入れて①②で殺害された人々の死体を盗み出し猟奇殺人計画書「昭和7年の天誅」に出ているとおりの死体加工をしてみせる。そのため非常に捜査が難航する。
それにしても、①②では目的の加納親子は無事で無関係の人々がぼろぼろ死んでいく。
トリックとして犬坊菊子が庭に作らせた龍の頭による自動照準装置を使って、「都井睦雄」の猟銃を差し込んで引鉄を引くだけで加納親子の部屋を撃つことができるせっかくの装置を菊子は老齢なため目が良く見えず狙撃に失敗して無関係の人々を次々に撃ち殺してしまい、良心の呵責に耐え切れずにその同じ猟銃で自殺してしまう。
そのため死体の数が膨れてしまったのだ。
結局、加納親子は無事で①②の犯人は死んでしまい、③の藤原は警察に捕まる。
ひどく込み入ったストーリーになっている。
今回は御手洗潔は直接登場せず、推理作家としての石岡一巳が謎解きに挑戦するというスタイルをとっている初めてのケースである。それにしても込み入ったストーリーだ。
島田荘司のいうところの「コード多用型の館ミステリー」なのだ。
島田はここで様々な実験をしている。「料理人や執事に重要な役どころを振ってはならない」というタブーへの挑戦や、「犯人を含むすべての登場人物は物語の初期段階で登場させなければならない」というタブーにも挑戦している。
確かに、調理人藤原が犯人の一人だというところは否定しない。それに対する違和感はない。
しかし、琴職人の樽元純夫が龍臥亭の地下にずっと住み着いていて、「都井睦雄」の血を引く加納親子を護っていた。ということは読者の誰もが想像の埒外にあるのではないだろうか。しかもそれは、この物語の最後に登場するのだ。
この辺りはやはりミステリーの横紙破りではないだろうか。
しかし、読後感想としては面白いということに尽きる。この物語を構築するにあたり島田荘司の労力に対して大いに敬意を払わなければならないと思う。
さて次に「都井睦雄」による「津山30人殺し」の真相である。
島田荘司は、一般的に流布されている「津山事件」があまりにも現実からかけ離れているためこれをこの本により訂正したいという目的を持っていた。
「津山事件」はそれを下敷きにした横溝正史の「八つ墓村」の陰惨なイメージの基にまた、それを非常に拡大解釈した野村芳太郎の同名映画の演出の凄さによって現在の我々のイメージは作られていると思われる。
つまり「津山事件」の犯人の鬼畜の所業の数々というイメージである。
しかし、「津山事件」の実態は村の淫風としての夜這いがあったという事実である。都井睦雄は秀才であり村の子供たちを集めて自分で作った話や子供用に自分でアレンジした話を提供していた。
しかし、睦雄も男であり性欲の処理には困っていたので、村の様々な女性に対して夜這いを掛けた。これは村では表面には出てこないが裏面では誰もが行なっていることだった。
ただ、問題だったのは、彼が肺病病み(結核)であったことだ。現在のエイズのような感じだったのであろう。
彼はこれをひた隠しにしていたが、遂に発覚して、関係していた女性たちが一斉に彼を攻撃し、彼を排撃した。
都井睦雄は彼女たちに復讐を誓い、準備を始めるのだった。
そして、準備が用意周到に達したとき、彼は躊躇なく復讐を始めるのだった。
確かに周到な準備がないと30人も殺害できない。これは、発狂して突発的にしたとする世間のイメージからはかけ離れている。
それにしても30人である。確かに異常な事件である。
しかし、その根本原因は日本的な弱い者虐めなのだ。そして行儀よさへの強制。
そのような規範から外れるとき、排撃され村八分にされる。日本的な因習と正当なもののみしか認めない道徳観の強制。
それが、「津山30人殺し」の真相なのである。
漱石と倫敦ミイラ殺人事件 島田荘司
入院中なので、本の現物がありません。
うろ覚えなので、間違っているかもしれません、
その場合は、退院したら、内容を確認して訂正します。
さて、島田荘司さんはいつも大掛かりなトリックを用意されるのですが、今回はトリックそのものは小粒。
代わりに用意したのは時代背景と設定。
夏目漱石がロンドンに海外修行に行った時期とベイカー街の住人、シャーロックホームズとワトソンをシンクロさせた作品。
読者、特にシャーロキアンに対してサービス大盛。
厳密に言えば、ホームズはもう少し前の時代かな。
話の狂言廻しは、夏目漱石の目からと、ホームズの奇行を抑えるワトソンの目からと、双方のサイドから描かれる。
同じものを見る場合でも、その対比は非常に面白い。
事件はある資産家の未亡人が、幼い頃生き別れた弟を探し屋(そんな商売もあるんだ)に探させてスコットランドの方から探してくる。
その弟が幽鬼のように痩せており、部屋を線香とかの煙で充満させ冬だというのに暖房を入れさせない。
そういった奇行を繰り返してある日、死んでしまう。
その死体が、極端に小さく黒ずんでしまっている。
未亡人はそれを見て、発狂してしまう。
なかなか、怪奇趣味のミステリィでしょう。
それを、ホームズと頭脳明晰な漱石の視点の双方から書き込んで行き、大団円は見事に一本に纏まる。
小品ながらもいろいろな風味を楽しめる一編である。
犯人を罠にかけるため、懸賞付きの新聞広告を出すのだが、その辺は『赤ヒゲ同盟』のパロディでなかなか楽しい。
三浦和義事件 島田荘司
大書である。総ページ数は900頁を超える。
私が手に入れたのは、角川の文庫版で平成9年校了となっていた。
知らない人がいるかもしれないので、補足する。
三浦和義事件はフィクションではない、現実の事件である。
昭和59年に週刊「文春」が特集した記事「疑惑の銃弾」を起点として
所謂「ロス疑惑」という言葉で当時のマスコミを大いに賑わした
事件である。
事件そのものは、その2年ほど前に輸入雑貨商を営む夫婦が、ロスアン
ジェルスのダウンタウンで賊に銃撃され、奥さんが頭を撃たれて植物状態
になったという事件である。
このときの、夫が三浦和義であり、撃たれた奥さんは一美さんと言った。
このときは三浦和義は行動力があり、合衆国大統領やカリフォルニア知事
に治安の悪さを訴え、合衆国から最大限の便宜を引き出した。
合衆国陸軍の病院機を使ってハワイ経由で日本の病院へ一美さんを搬送
させたのだ。
彼は、一美さんを搬送するヘリ(病院機は横田基地に着陸し、そこから
ヘリで日本の病院に搬送された。)に対して発煙筒を炊いて位置を知らせた。
このときマスコミが大々的にこの事件を報道し、三浦和義は「悲劇の夫」
として華々しくデビューした。
それにしても、大変な演出力である。
それから2年後に「文春」が「疑惑の銃弾」を公開するのである。
それから、マスコミの狂騒がはじまり、それは三浦和義の逮捕という
幕引きで決着する。
裁判を丁寧に追ったマスコミ情報は少なかったので、三浦和義の旬は
逮捕という結末でマスコミとしては決着したのであろう。
ちなみに、私にとったらリアルタイムの話題であった。
毎日マスコミの狂騒報道がテレビで映し出されていた。
「疑惑の銃弾」の骨子は、一美さん銃撃の影の仕掛け人は三浦和義本人
ではなかったのか。動機は、一美さんに掛けられた高額な保険料であり
保険金を狙った、計画的な殺人なのではないか。
というものだ。
その他に、2ヶ月前の夏に宿泊していたホテルで同じく一美さんが槙ソ女に
殴打された事件。
フルハムロード(三浦和義が経営していた輸入商社)の役員の女性がアメリカ
で失踪し、彼女の離婚の際の慰謝料を三浦和義氏が受け取っていたことなど
疑惑を裏付ける事柄には事欠かなかった。
そのために、マスコミの報道合戦もヒートアップしっぱなしだった。
本書は3部の構成になっている。
最初は、マスコミ・サイドの視点。
「文春」が「疑惑の銃弾」を連載を決意する経緯。
それに乗っかる形で、各メディアの興味本位の報道合戦。
穿り返される三浦のプライバシー。
正義の代理人としてのマスコミ。
日本のマスコミは垂れ流すのに懸命で、充分な検証は行っていない。
それははっきり言えると思う。
そんな中で、少数ではあるが検証を試みたマスコミ人のエピソードなど。
島田荘司氏は、膨大な資料集めの手間を惜しまず当時を再現した。
次の視点は、三浦和義本人の視点
島田氏は、三浦氏本人に精力的にインタビューを試みたようで
マスコミサイドの視点からの見事な反証となっている。
また、個人史として列伝形式の読み物としても成立している。
興味深いことは、保険金に関することである。
まず、アメリカンライフを気取っていた三浦氏は、保険に関しても
アメリカナイズした考え方を持っており、経営者(エグゼクティブ)は
保険料惜しまず、高額の保険に入っていることがステータスであると考えていた。
次に、一美さんに関する保険金に関して、1億5千万がおりたように報道されているが
それは、死亡時であり(実際、銃撃による即死ではない)、三浦氏が受け取ったのは
4000万ほどであった。
それを、三浦氏は全額子供のための基金としたため(独り占めしたようにみえる)、
一美さん側の遺族からあらぬ疑いを受けてしまうのである。
しかし保険金殺人が動機として争われるならば、これは非常に重要なことではないか。
最後の視点は、裁判である。
傍証はマスコミサイドの視点で語られたことを司法はどう解釈するのか。
結果として判決は、殴打事件:懲役6年の実刑
銃撃事件に関しては1審は、無期懲役
上告が棄却された再度の上告で逆転無罪。
ここで、考えなければならないことがある。
これらの裁判において、はっきりとした証拠能力があるものは皆無であった。
検察側は、状況証拠の積み重ねで有罪を立証しようとしていた。
事件そのものが、一美さん殴打事件とその2ヵ月後の一美さん銃撃事件が
一連の連続したものとして取り扱われてしまったという矛盾がある。
一美さん殴打事件は、元女優というはっきりした犯人が存在する。
その犯人が、三浦氏に示唆されて殴打事件を起こしたのだ。
その連携した事件として銃撃事件があると捉えられるものであるので、
三浦氏の計画殺人の印象が深まってしまい、無期懲役という判決が一審で
下されてしまうのである。
逆転無罪の根拠は以下の通りである。
1.犯行に結び付く物証や目撃証言はない。
2.検察側はひたすら状況証拠を積み重ねて起訴。
3.1審は三浦元社長を有罪とした→「疑わしきは被告の利益に」という
原則に反するという批判が出る。
4.控訴審判決は「共謀の成立にはどうみても合理的な疑いが残る」
「確かな証拠は見当たらない」
と検察の描いた告}にことごとく疑問を挟んで、1審判決を否定した。
戦慄することがある。
状況証拠の積み重ねだけで1度は無期懲役という重罪の判決が出てしまったということである。
ここに、三浦和義氏の無罪判決後、拘置所を出るときのコメントがある。
「初めに、本日の判決をしてくださった裁判所に深い敬意を表します。
しかし、今日の判決でさえも私にとっては重い喜びしかありません。
なぜ、無実(の罪)を晴らすのに13年近くも自由を奪われねばならなかったの
でしょうか。無実であることは必ず明らかになるという一念で、この13年間を
生きてきました。
これからは娘と共に静かで落ち着いた生活を過ごしたいと思います。
常に信じてくれ続けた父母と娘、そして支援してくださった多くの方々、ありがとうございました。」
本書をどのように捉えるか、それは読む人間の一人ひとりに委ねられているようだ。
島田荘司氏はなるべく主観を交えずに記述しているように思える。
蛇足であるが
私自身が感じることは、マスコミの暴力である。
興味本位の垂れ流し、プライバシーの穿り返し。人権の無視。
当時から思っていたが、これは弱い物いじめではないのか。
確かに、三浦氏は素行が悪い人間(一般の人間にとって)のようである。
その反感が正義という名の下にマスコミからの攻撃の対象とされてしまった。
マスコミは報道する権利は当然持っているだろうが、告発する権利はどうだろうか。
正義を判定する権利をマスコミに与えてしまってもいいものだろうか。
最近の事例として、新型インフルエンザに罹患する恐れがあったのに生徒を海外渡航
させた高校の校長を責めたてて、ついに泣かせてしまった。
生徒をいかせるか否かは、随分悩み、それなりの議論を繰り返したであろうに結果だけで
責めたてている。
マスコミは、悪意のあるお調子者である。
独りを取り囲んで、マイクを突きつけて「答えるのが義務ですよ。」
みたいな攻められ方をされたとき、キチンとそれに答えられるだろうか。
また、答えたところでそれがまともな形なのだろうか。
もうひとつ重要なことがある。
判決が出るまでは、容疑者である。疑わしい範囲にある人間くらいの意味かもしれないが、
日本においては、容疑者=犯人である。
この時点で人権が侵されることになる。
このあたりになるともう、日本人の慣習、ライフスタイルになってしまうのであろうが
日本を暗黒社会にしないためのさまざまな工夫が必要になっているのではないだろうか。
いずれにせよ、さまざまな感慨を抱かせる1書である。
超戦闘機出撃 田中光二
超戦闘機出撃 田中光二
田中光二氏の仮想戦記物である。
田中光二氏といえば当初はハードSFで、平成に入ってから少したった頃から仮想戦記物を書き出したと思う。
最初の仮想戦記は連合艦隊シリーズで、日本海軍が太平洋戦争に突入してからの戦史を緻密に調査して
ほんの少しの「If」を導入して日本優位に進めていく。というスタイルだった。
仮想戦記物は好きである。
檜山良昭氏と田中光二氏の物を夢中で読みふけった時期もある。
田中光二氏が上記のスタイルだったのに対し檜山氏はいわゆる「タイムスリップ」物だった。
現代の自衛隊が何らかの事象により(自然現象であったり、実験であったりした)太平洋戦争当時に時空移動してしまい、
歴史に介入するというストーリーのスタイルだった。
どちらも面白かったが、田中光二氏のは特にどこが「If」なのかよくわからず、戦史を調べたりした。
その作家としての態度には感銘も受けていたと思う。
小説家は、調べることが基本だと思う。田中氏の場合は乗組員の名前や性格まで調べられる限り調べていたようである。
私事であるが、田中光二氏の本の中に登場する巡洋艦の乗組員の中に、父の知人の父上が実際に乗艦していたのである。
機関砲手であり、敵機を撃墜したところまで描写されていた。実史なのである。
本当に史料に当たっていかないと描写出来ないであろう場面が多々あり、本物の興奮を小説から味わっていたように思う。
さて、本作「超戦闘機出撃」は今の田中光二氏の作品である。
未来人が太平洋戦争に介入し、未来世界から当時の兵器に似せた超兵器を持ち込んで、日本側に無理やり勝利させるという
パターンである。
このスタイルの方が、本が売れたのだろうか。
確かに、カタルシスは味わえるが、何か本物の「カタルシス」ではないような気がする。
未来人が持ち込む超兵器がともかく途方もないのである。
超巨大空母であったり、戦時中に計画していた重爆撃機「富嶽」に似せた未来兵器であったりでこれらがあれば日本が勝って
当たり前って感じで展開していく。
本作で登場するのは、なんとジェット戦闘機や対艦ミサイル、ホーミング魚雷などの豪華版。
アメリカ側も1950年代に登場するはずのF86セイバージェット戦闘機を出してきたりするのだが、それよりも日本側がずっと
優勢である。
ともかく何が何でも日本に無理やり勝たせようとしている。
随所に、戦史のウンチクをちりばめるのだが、それこそ昔とった杵柄であろう。
このように何でもありならば、私でも書けそうな気がする。
編集者からの依頼なのだろうか。もしそうだとしても唯々諾々と受けるのはどんなものであろうか。
連合艦隊シリーズの田中光二はどこへ行ったのだろうか。
そこに戻ってほしいと切望している。
ところで、私が手に入れたのが2007年4月版で初版だった。
たまたまなのかもしれないが、もしかしたらあまり売れてないのかもしれない。
仮想戦記物がもう旬ではなくなってしまったが、田中氏の今の作品は大いなるマンネリである。
しまった。写真が撮れない。この前ブックオフに出しちゃった。
リアル鬼ごっこ 山田悠介
申し訳ない。初めの34ページで断念させていただきます。
したがって書評は書くべきではないのでしょうが……
少しだけ思ったことを書かせていただきます。
この作者は「文」の構成力がまるでありません。読者に何を伝えたいのかっていうところが、その場しのぎで書かれています。
したがって、はっきりいって読める文になっていません。
私が手に入れたのは文庫版で13版となっていました。このレベルで13版は非常に売れているのですね。
そこが凄いです。
ネットの話題としてこの作品のストーリーはだいたいわかっています。飛ばし読みした結果としてストーリーの把握は間違っていないようです。
あとは行間を読むとか、要するに作品を味わうつもりだったんですが。
申し訳ないが、これ以上のこの作品の「読書」は出来ない。はっきりいって文章として成り立っていない。
文庫版で大幅改訂が行なわれたようです。ネットでいわれていたような稚拙な表現や二重強調などは無くなっているようで読めることは読めます。
しかし、もう少し構成も変えればよかったのに……。
改訂にあたり、ゴーストライターの方が苦労されたのでしょうね。たぶん作者本人にここまでの改訂をする力は無かったでしょうから。しかし話の構成が酷すぎる。発想とかストーリー展開は見るものがあると思いますよ。私はあまり好きではない話なのですが……
まぁ、それは主観の問題なので(好き嫌いの問題)良し悪しは言えません。
しかし、文章力は? 構成力は やっぱり細かい文章の改訂はされても構成に関してまでは至らなかったようですね。
この次に、小松左京先生の『果てしなき流れの果てに』を読もうと思っていましたので、『リアル鬼ごっこ』を読むことで読書に悪影響を与えかねないと思い、断念させていただきました。
ちなみに、この映画は観ました。よく出来ていたと思いましたよ。
でも原作がこんなにひどいとは思いませんでしたね。
そうすると、映画のスタッフは「すごい」。
以上
蘇る古代史 豊田有恒
豊田有恒先生の古代史研究ものである。
昔は、たくさん読んだのであるが、今はさっぱりご無沙汰になってしまった。
1997年5月20日 第一刷となっている。
第一刷が手に入ったってことは、この本はあんまり売れなかったってことだね。
それは仕方がないとなのかも知れない。皆さん、豊田有恒って知らないでしょう。
そうだよね。でも豊田有恒ほど、硬派で一徹な人を知らない。
もう、だいぶお歳をめされているはずだがまだ現役でいらっしゃるようだ。
本の構成としては、最初に人類が何故地球の覇権者となり得たのかというところに論点を持っていっているのだが……
先生、いろいろなところに話が行ってしまいこの疑問に対する解答を出していない。そのまま次の章へいってしまった。
たぶんこの辺りは、編集者との連携がうまくいっていないのだろう。この本全体でも目次と内容があっていない箇所がたくさんある。また、テーマに沿ってはいるが関連する無駄話が多くて楽しい。
たぶん、軽い読み物として書いているのだと思われる。
豊田有恒先生は、時間をテーマにしたSFのパイオニアである。
ヴィンス・エヴェレットを隊長とするタイムパトロールものが凄い。豊富な歴史の知識を基に壮大な歴史のifを構築してくれる。
実は、歴史に関するifはタブーであった。それを豊田有恒先生が切り開いてくれたのだ。
今、仮想戦記ものがたくさん出版されているが、その作者達は豊田有恒先生に感謝してもし尽くせないくらいの恩恵をもらっていたのだ。
次は、豊田有恒先生の時間SFを手に入れて評価させていただきたいと思います。
帰ってきた怪獣VOW 宝島社 怪獣VOWプロジェクト編
帰ってきた怪獣VOW
買っちゃったよ。また・・・・
ブックオフで。
何回目かな。買って、売ってを繰り返してる。
内容のくだらなさがいい。
ガメラは軽すぎないかってところで、
ガメラは80トンらしいのだが密度が0.011g/cm3しかないので発砲スチロール
より軽いことになるらしい。
ところで、怪獣たちの身長とか体重とかはどうやって計ってるんだろうね。
彼らがおとなしく体重計に乗ってくれるわけもないので、やっぱり地面へのめり込み
具合とか、ミサイルを撃ち込んだときに引き剥がされた皮膚から密度を計算するんだろうな
身長は、3角測量なんだろうな。
いつも、不思議に思うのは身長60mとか体重2万トンとか、キリがいい数字が多いこと。
設定時に58.6mとかあってもいいと思うんだけど。
トンデモ日本史の真相 と学会原田実
トンデモ本棚(冷蔵庫なんだけど……) |
トンデモ日本史の真相 と学会原田実
と学会の本である。
と学会の本は、ほとんどを読破していると思ったが日本史を題材にしているのははじめてだった。
見落としってのはあるもんだ。
構成は「トンデモ99の真相」と同様にまことしやかな「巷説」を紹介した後その真相を解説するという形式。
「竹内文書」、「秀真伝」、「宮下文書」、「光秀天海説」、
「松尾芭蕉忍者説」、「義経ジンギスカン説」などなど。
こうやって書いていくと、巷説がひどくそそられますな。
真相はわかるけど、やっぱ巷説は面白い。
日本人ってのは、本当にうわさ話が好きな民族らしい。
また、それらがまことしやかに流布されるってのも面白い。
ちなみに、若い頃は、トンデモ説を信じていた。
今でも、信じたい面がある。もしかしてどなたもそうかもしれませんね。
ヴェリコフスキーの壮大な太陽系生成論をいつか描きたいですね。
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