2012年3月16日金曜日
果てしなき流れの果てに 小松左京
先日逝った小松左京先生の作品である。
高校生の時
初めて読んだがそれから毎年1回は必ず読んでしまう。
ブックオフが出来てからは、小松左京先生の作品を探すのだがあまり見つからない。
特にこの作品は、めったにお目にかかれない。
この作品は昭和40年に書かれている。西暦でいうと1965年だ。
そんな時代に、こんな壮大な物語があったとは本当に驚異的である。
これは云わば、宇宙史である。小説という体裁を借りているが、壮大な哲学的なものを感じる。
一応ストーリーは、大阪の南部で山の中腹に設けられた奇妙な古墳の発見からはじまる。
その中から発見された砂時計は、永遠に砂が落ち続ける不思議なものだった。
理論物理学者、野々村はその古墳を調査しどこにもつながっていない羨道を発見する。
その夜、大阪の街で恋人の佐世子と落ち合った後、野々村は行方を絶つ。
奇妙な砂時計は未来の宗教「拝時教」の道具だった。それは時を越えて通信を行なうことが出来るものだった。
宇宙は(それが生まれる前から)秩序を保つものとそれを破壊するものとで争われていた。
それは、時空を越えまた次元を越えて展開された。
それは管理するものと、反抗するものとで争われた。
舞台は、近未来、突然の太陽黒点の異常で太陽が膨脹し地球が滅亡する時代であったり、中生代白亜紀であったり、見知らぬ
星の上であったり、日本の古墳時代であったり、1965年であったりする。
野々村は秩序を破壊するNとなり、野々村の子孫で太陽膨脹から退避したマツウラはより階梯の高いアイと意識合同して
エヌを追う。
ストーリーはこの両者の追跡劇を軸として展開する。
階梯とは知性レベルのヒエラルキーとして描かれる。
進化する目的。知性とは、意識とは……。それらを考えさせる為のエピソードが続く。
終盤、追い詰められたNはすべてを超越した意識を得て、宇宙のまたこの世界のすべてを見る。
時間の流れのすべてを、宇宙のすべての場所を、進化の過程のすべてを、枝分かれした多次元のすべてをNは知る。
そして、知りすぎた罰として、地上に落とされ、野々村を待ち続けて年老いた佐世子と暮らし、彼女を見送って後自分も
息絶える。
ストーリーはともかく、壮大な話である。
ところどころに、練り不足の箇所は見られるがこの壮大な話と取りまとめる技量はさすが、小松先生だ。
少なくとも、私にはその能力は得られそうにない。
さて、これは「日本沈没」よりも前に執筆された小説である。
「日本沈没」のようにポピュラーではないし、小松先生のファンでも知らない人が多いようである。
しかし、私個人としてはこの「果てしなき流れの果てに」が小松先生の代表作だと思っている。
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