2012年3月18日日曜日
井沢元彦の世界宗教講座
逆説の日本史シリーズの井沢元彦氏の本である。
井沢氏は持論として、日本人は無宗教を標榜しているが本当はその大多数が日本教という宗教の信者である。と主張する。
最初にこの説を聞いたとき、目から鱗が落ちたような気がした。なるほどと思われることが多々あったのだ。
その、井沢氏が、日本の宗教観と世界に点在する宗教観を比較しているのがこの本である。
比較宗教論とでもいおうか。
この本自体は、名古屋の朝日カルチャーセンターで行なった『新宗教学入門』という講座の焼き直しで1993年に刊行されている。
のちに出てくる井沢氏独特の言霊や歴史観などに関してはその鋭さがまだ無いが、十分読者を納得させることができるだけの説得性を持っている。
まず、日本教の本質をつく。
『和』である。『大和』という言葉は『大きな和』ということではないのか。日本人は『和』を重んじる。
『和』とは、話し合いのことである。ものごとを決めるときに話し合いをすることは当然良いことのように感じるが、逆にいえば『話し合い至上主義』なのだと説く。
その根拠として、聖徳太子の『十七条の憲法』を引き合いに出す。
その第一条は『和を以って貴しとなす』である。これを最初にもってくる。二条は仏教を敬え、三条は天皇を敬えと続くが、第一条に『和』を持ってきている。
確かに話し合いは良いことだ。しかし、聖徳太子は、というよりも日本の支配階級は『和』を導入することにより治世しようとしているのではないか? という疑問を投げかける。
つまり、話し合いをしなくて決めたものには価値がないという話し合い至上主義である。
井沢氏の主張の根本としてのもう一つの柱は『怨念』である。
多数決や独断で決めたものは、反対意見の者にこの『怨念』が残る。それを薄めるのが話し合いに参加する『和』なのだ。
日本人の原理の根本がここにある。
これに対して。世界はどうだといい、キリスト教、仏教、イスラム教と比較していく。
・キリスト教
キリスト教は、神と信者の契約である。それが基本。
旧約聖書と新約聖書に書かれていることを正確に守ることが信者の務めである。
しかし、聖書に書かれていないことがある。その解釈権を巡ってカトリックとプロテシタントに分派
プロテシタントの考え方から、近代合理主義が興る。
ここでまた眼から鱗なのだが……
基本的人権のことである。
人間は、能力の高い者も低い者もいるが、神の前に置いてはたいした差ではない。
なんせ神は全知全能なのであるから。だからこそ神の前では等しく平等であり、神の前で一人一人の人としての基本的人権が付与される。
神と契約関係にない日本人にはこの発想は出てこない。なるほどと思う。
・仏教
仏教の目的は『悟り』と『入滅』である。
つまり、人間としての苦しさからどのように逃れ、人間を超えた存在になるか。
というようなことになろうか。哲学的な発想である。
そのために、修行をする。その修行の形態で大乗仏教と上座部(小乗)仏教に分派する。
上座部(小乗)は、『悟り』を得るために修行して仏陀になることを目的とする。
対して、大乗仏教は、それでは一人しか救えない。みんなを救う手立てを考えることができないか、と考える。そのみんなを救う手立てというところで更に分派していく。
尻つぼみになってしまっているが、井沢氏はこのようにしてこの本の中で世界の宗教を比較していく。
そして最後に、また日本に戻ってきて、これらの考え方が入ってきた以降の日本においてこれらの生き方の原理を日本人がどう咀嚼していったかを説くのである。
説明が長くなってしまったが、ともかく一度読んでみる価値のある一冊である。
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