2012年3月16日金曜日
三浦和義事件 島田荘司
大書である。総ページ数は900頁を超える。
私が手に入れたのは、角川の文庫版で平成9年校了となっていた。
知らない人がいるかもしれないので、補足する。
三浦和義事件はフィクションではない、現実の事件である。
昭和59年に週刊「文春」が特集した記事「疑惑の銃弾」を起点として
所謂「ロス疑惑」という言葉で当時のマスコミを大いに賑わした
事件である。
事件そのものは、その2年ほど前に輸入雑貨商を営む夫婦が、ロスアン
ジェルスのダウンタウンで賊に銃撃され、奥さんが頭を撃たれて植物状態
になったという事件である。
このときの、夫が三浦和義であり、撃たれた奥さんは一美さんと言った。
このときは三浦和義は行動力があり、合衆国大統領やカリフォルニア知事
に治安の悪さを訴え、合衆国から最大限の便宜を引き出した。
合衆国陸軍の病院機を使ってハワイ経由で日本の病院へ一美さんを搬送
させたのだ。
彼は、一美さんを搬送するヘリ(病院機は横田基地に着陸し、そこから
ヘリで日本の病院に搬送された。)に対して発煙筒を炊いて位置を知らせた。
このときマスコミが大々的にこの事件を報道し、三浦和義は「悲劇の夫」
として華々しくデビューした。
それにしても、大変な演出力である。
それから2年後に「文春」が「疑惑の銃弾」を公開するのである。
それから、マスコミの狂騒がはじまり、それは三浦和義の逮捕という
幕引きで決着する。
裁判を丁寧に追ったマスコミ情報は少なかったので、三浦和義の旬は
逮捕という結末でマスコミとしては決着したのであろう。
ちなみに、私にとったらリアルタイムの話題であった。
毎日マスコミの狂騒報道がテレビで映し出されていた。
「疑惑の銃弾」の骨子は、一美さん銃撃の影の仕掛け人は三浦和義本人
ではなかったのか。動機は、一美さんに掛けられた高額な保険料であり
保険金を狙った、計画的な殺人なのではないか。
というものだ。
その他に、2ヶ月前の夏に宿泊していたホテルで同じく一美さんが槙ソ女に
殴打された事件。
フルハムロード(三浦和義が経営していた輸入商社)の役員の女性がアメリカ
で失踪し、彼女の離婚の際の慰謝料を三浦和義氏が受け取っていたことなど
疑惑を裏付ける事柄には事欠かなかった。
そのために、マスコミの報道合戦もヒートアップしっぱなしだった。
本書は3部の構成になっている。
最初は、マスコミ・サイドの視点。
「文春」が「疑惑の銃弾」を連載を決意する経緯。
それに乗っかる形で、各メディアの興味本位の報道合戦。
穿り返される三浦のプライバシー。
正義の代理人としてのマスコミ。
日本のマスコミは垂れ流すのに懸命で、充分な検証は行っていない。
それははっきり言えると思う。
そんな中で、少数ではあるが検証を試みたマスコミ人のエピソードなど。
島田荘司氏は、膨大な資料集めの手間を惜しまず当時を再現した。
次の視点は、三浦和義本人の視点
島田氏は、三浦氏本人に精力的にインタビューを試みたようで
マスコミサイドの視点からの見事な反証となっている。
また、個人史として列伝形式の読み物としても成立している。
興味深いことは、保険金に関することである。
まず、アメリカンライフを気取っていた三浦氏は、保険に関しても
アメリカナイズした考え方を持っており、経営者(エグゼクティブ)は
保険料惜しまず、高額の保険に入っていることがステータスであると考えていた。
次に、一美さんに関する保険金に関して、1億5千万がおりたように報道されているが
それは、死亡時であり(実際、銃撃による即死ではない)、三浦氏が受け取ったのは
4000万ほどであった。
それを、三浦氏は全額子供のための基金としたため(独り占めしたようにみえる)、
一美さん側の遺族からあらぬ疑いを受けてしまうのである。
しかし保険金殺人が動機として争われるならば、これは非常に重要なことではないか。
最後の視点は、裁判である。
傍証はマスコミサイドの視点で語られたことを司法はどう解釈するのか。
結果として判決は、殴打事件:懲役6年の実刑
銃撃事件に関しては1審は、無期懲役
上告が棄却された再度の上告で逆転無罪。
ここで、考えなければならないことがある。
これらの裁判において、はっきりとした証拠能力があるものは皆無であった。
検察側は、状況証拠の積み重ねで有罪を立証しようとしていた。
事件そのものが、一美さん殴打事件とその2ヵ月後の一美さん銃撃事件が
一連の連続したものとして取り扱われてしまったという矛盾がある。
一美さん殴打事件は、元女優というはっきりした犯人が存在する。
その犯人が、三浦氏に示唆されて殴打事件を起こしたのだ。
その連携した事件として銃撃事件があると捉えられるものであるので、
三浦氏の計画殺人の印象が深まってしまい、無期懲役という判決が一審で
下されてしまうのである。
逆転無罪の根拠は以下の通りである。
1.犯行に結び付く物証や目撃証言はない。
2.検察側はひたすら状況証拠を積み重ねて起訴。
3.1審は三浦元社長を有罪とした→「疑わしきは被告の利益に」という
原則に反するという批判が出る。
4.控訴審判決は「共謀の成立にはどうみても合理的な疑いが残る」
「確かな証拠は見当たらない」
と検察の描いた告}にことごとく疑問を挟んで、1審判決を否定した。
戦慄することがある。
状況証拠の積み重ねだけで1度は無期懲役という重罪の判決が出てしまったということである。
ここに、三浦和義氏の無罪判決後、拘置所を出るときのコメントがある。
「初めに、本日の判決をしてくださった裁判所に深い敬意を表します。
しかし、今日の判決でさえも私にとっては重い喜びしかありません。
なぜ、無実(の罪)を晴らすのに13年近くも自由を奪われねばならなかったの
でしょうか。無実であることは必ず明らかになるという一念で、この13年間を
生きてきました。
これからは娘と共に静かで落ち着いた生活を過ごしたいと思います。
常に信じてくれ続けた父母と娘、そして支援してくださった多くの方々、ありがとうございました。」
本書をどのように捉えるか、それは読む人間の一人ひとりに委ねられているようだ。
島田荘司氏はなるべく主観を交えずに記述しているように思える。
蛇足であるが
私自身が感じることは、マスコミの暴力である。
興味本位の垂れ流し、プライバシーの穿り返し。人権の無視。
当時から思っていたが、これは弱い物いじめではないのか。
確かに、三浦氏は素行が悪い人間(一般の人間にとって)のようである。
その反感が正義という名の下にマスコミからの攻撃の対象とされてしまった。
マスコミは報道する権利は当然持っているだろうが、告発する権利はどうだろうか。
正義を判定する権利をマスコミに与えてしまってもいいものだろうか。
最近の事例として、新型インフルエンザに罹患する恐れがあったのに生徒を海外渡航
させた高校の校長を責めたてて、ついに泣かせてしまった。
生徒をいかせるか否かは、随分悩み、それなりの議論を繰り返したであろうに結果だけで
責めたてている。
マスコミは、悪意のあるお調子者である。
独りを取り囲んで、マイクを突きつけて「答えるのが義務ですよ。」
みたいな攻められ方をされたとき、キチンとそれに答えられるだろうか。
また、答えたところでそれがまともな形なのだろうか。
もうひとつ重要なことがある。
判決が出るまでは、容疑者である。疑わしい範囲にある人間くらいの意味かもしれないが、
日本においては、容疑者=犯人である。
この時点で人権が侵されることになる。
このあたりになるともう、日本人の慣習、ライフスタイルになってしまうのであろうが
日本を暗黒社会にしないためのさまざまな工夫が必要になっているのではないだろうか。
いずれにせよ、さまざまな感慨を抱かせる1書である。
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